香織は、死んでいた。理由は分からない。原因も当然の如く分からない。気が付くとそうなっていた。そうなっているという事実が彼女のすべてであり、彼女を突き動かす理由そのものであった。涙。涙が溢れて視界を遮る。涙。それは、悲しみ。それは、楽しみ。それは、驚き。すべての、感情。涙。・・・・・・。脳裏に映っている記憶の欠片。一人の少年。笑っている。こっちを見て微笑する。親しみが籠もっている。だけど、知らない。分からない。分かるのは、親しい、だけ。香織は、飛び立っていた。
啓介はこの、ただただ巡る世界、日常、社会、それらの身の回りを覆う空間を好んではいない。嫌悪している。正確には、「恐怖」だ。繰り返されるだけの時間軸の狭間に束縛されていることを思うと、焦燥感に似た恐怖心、あるいは原始的ともいえる拒絶感を感じる。理由は分からない。この地球上に造られし時よりずっと自分の中に張り巡っていた、深層意識ともいえる物から発せられている。啓介は、本能的に分かる。これがどうにもならないということが、ただ、分かるだけ。思考されて出ずにただふっと出て来た答えに、ぽっかりと空洞のような虚無感。それが漂う。それ故、もどかしさが残る。
「嫌だ。何もかも。」
突然、啓介は呟いた。分けもなく出てくる。まるで言い慣れた単語や習慣化された挨拶のように紡ぎ出されてしまう言葉。それは、誰が聞くと無く、中に漂う弱々しい言葉。啓介は絶望を感じている。
「嫌だ。」
啓介は、一人の、たった一人の友人を持っていた。名を香織という、女の子だった。互いにたった一人だけの友達。何故だか互いにだけは心を許し、時を共に過ごすことが苦にならず、心を満たしてくれる相手同士だった。
他の者とは波長が合わずに、言葉を交わしても言葉に重みが入らずすべて宙に浮いてしまう。そんな二人なのに、または二人だからこそ波長があっていた。啓介にはこの空間内で一番重要だったものは紛れもなく、香織であった。実は、密かに啓介は香織に好意を抱いていた。香織がいればこの空間で負った傷や悲しみを一掃できた。香織がいれば楽しみや喜びを分かち合い、増幅することが出来た。香織がいれば新たな発見や驚きを素直に受け入れられた。香織がいれば笑って話すことが出来た。いれば。香織がいるならば。
もう居ない。啓介のすべてであった香織はもう、居ない。今日からはそういう認識を迫られる。すべては、昨日の夜に・・・。
香織はその少年を捜していた。同じような町並みを直向きにその少年の顔だけを見て回って。すべての感覚を鋭く澄み切らせて捜す。ここまで来れたのは、途中に前の記憶の断片を所々思い出した。もちろん、自分の住んでいた所や自分の名前は思い出している。その記憶を辿って、やって来た。間違いない。この町にいる。そういう気配を、香織は「第六感」で感じていた。もう少し、もうちょっと。香織は焦りのような期待を感じていた。
啓介は昨日の夜のことをまた思い出した。それはちょうど11時を回ったところだった。
今日は香織と二人で散歩に行く約束を交わしていた。涼みがてらの散歩というところだ。
「啓介ってば相変わらず時間にルーズなんだから。」
香織が啓介を責め立てる。無理もない。啓介は約束の時間を10分ばかり遅れてやって来ていた。家事の手伝いをしていたのだ。
「ごめんごめん。ちょっと家事の手伝いをやらされてたんだ。」
「へぇー。意外と偉いんだね啓介って。」
「そんな事無いよ。家事を手伝わないと親が可哀想だからな。」
「いいなぁ、啓介の両親は幸せ者だね。啓介きっといいパパになると思うなぁ。啓介の奥さんになる人が羨ましいよ。」
啓介はそれを聞いてドキッとした。いった相手は仮にも、自分が好意を持っている人なのだ。頬が赤らむのが感じられる。
「どうしたの啓介?やっぱり寒くなったの?風邪引いちゃうかもしれないから、帰る?」
「違う違う。そんな事じゃないよ思うよ。」
「そうなの?それなら良かった。」
啓介は幸せであった。また、香織も幸せであった。結論から言うと、もう、香織は啓介のことが好きであった。もっと言うと、恋愛感情を持っていた。だけれど、今の今までその感情に一種の危機感を感じていた。もしも、啓介に好きだという旨を打ち明けたらどうなるだろうか?断られてしまっては今まで築き上げてきた信頼関係、友情などが崩れてしまう気がしてならなかった。性格が性格なのでついつい保守的に構えてしまうのだ。だけれども、こうして二人で歩いている時に香織は周りからどう見られるかと想像して頬をほころばせていた。男女一組が楽しそうに話しながら歩いているいるのである。どうみたってカップルにしか見えないはず、と香織は一人で心地よい気分になっていた。二人とも、満たされていた。永遠にこの時間が続けばよいと二人とも思っていた。だが、その終わりはあまりにも突然、やって来た。
「お前ら、こんな遅くに何やってんのぉ?」
はっ、として振り返るとそこには柄の悪そうな不良グループがいた。
「へっ!見てみろよ。こいつら夫婦気取りじゃねぇのか?」
「そう言われてみればそうだな。どうすっかなぁ。」
啓介と香織は本能的な危機を感じていた。足早に逃げようと啓介が香織の手を握って逃げようとしたが、もう周りを囲まれていた。
「ひひひひっ。逃がさないぜお二人さん。」
もう逃げ場がなかった。
「おい、見てみろよ。こっちの女の方、意外に上玉だぜ?」
香織はビクッと跳ねた。恐怖で足がすくんで動かなくなっていた。気が付くと、香織は泣いていた。啓介も動けなかった。
不意に、一人の男が啓介めがけて拳を飛ばしてきた。
「ぐふっ!」
何の構えもしていなかった啓介はそれを直で受けてうずくまってしまった。もう為す術がなかった。
「啓介っ!」
香織が叫んだ。その途端、ごつい男が香織の腕をつかんできた。
「お嬢さん、こっちにおいでなさい。くくくく。」
泣きじゃくる香織を強引に引っ張っる。
「止めろっ!香織を離せっ!」
啓介は数人に蹴られながらも必死に懇願した。だが、それが返って不良達を面白がらせていた。強烈な蹴りがみぞおちに突き刺さる。
「くはぁっ!」
啓介の口からは鮮血が出ていた。
「啓介っ!啓介を離してっ!」
香織は自分をつかんでいた不良の腕に噛み付いた。
「いてぇっ!噛みやがったな!」
香織は不良に投げられ、宙を飛んでいた。次の瞬間、鈍く嫌な音がした。香織は木に頭を強打したのだ。崩れ落ちた香織の後頭部からは大量の鮮血が流れ出していた。
「おい、やばいんじゃないのお前。逃げた方が良いぜ。」
不良が蜘蛛の子を散らしたように色々な方に逃げていった。そのすぐ後に、
「お巡りさん!こっちです!」
と、叫ぶ声がした。フラフラになりながらも香織の元へにじり寄る。
香織は、即死だった。