少年と幽霊

香織は感じる。目的の少年が手の届く範囲内にいるような錯覚さえ覚えるほどに近くにいる感じがする。あと少し。あと少しで私は、今、近くにいても許してくれる少年に出会える。そう直感する。何故だか、そう思える。時間が経つにつれて、否、少年の居るはずの場所に近づくにつれて、希望がじわじわと皮膚を通して体の外側にわき出てくる。香織は、幽霊となってから初めて、笑っていた。

辛いことばかりだ。啓介はそう思った。世界全体、時空全体を通じて得をする人がいれば、その分だけ損をする人たちが出てくる。いわゆる、ゼロサムゲームだ。利害一致と言えば聞こえも良かろうが、そんな気分には成れない啓介が居る。また、そんな啓介を見て、嘲笑する啓介も居た。その視点から見ると今落ち込んでいる自分が馬鹿馬鹿しく、惨めに見えることだろう。それを知りたくなくて今の今まで逃げていた。隠れていた。抹消した。前回まではそれで良かった。自分の中に虚空が出来るだけで済んだ。今回は違う。別のもっと苦しくて、もっと悲しいものに啓介は浸かっていた。喪失感。それしかない。現在存在している啓介を浸食して代わりに啓介を満たしている、喪失感。啓介の頬が、目尻が、輝く。世界に抗議するように啓介は涙した。一人の、かつて存在した、最も愛していた少女のために啓介は、涙した。悲しみの涙。大切な物を奪った者への恨みの涙。そして、最も不運だった少女に捧ぐ、優しい、涙。もう、還っては来ない。
ひと時前の喜びと興奮はすでに冷めて、代わりに一抹の不安を抱えて、香織は目的地を目指す。香織は目的に向かってひた向きに進んでいたので全く気が付かなかった。町中や人混みの中をすいすいと突き進んでいたにもかかわらず。自分が、他人の視界に映っていない事に。それはそのはずだ。自分がいかに観念的で、また、どれだけ不安定なモノかはっきりと自分で分かってる。だが、どうしても認めたくない。香織は何もかもが失われるリスクを背負っているのである。だが希望は無いわけでもなかった。今通っている通りでいぶかしげにこっちを眺めている目的とは別の一人の少年がいる。移動すると、こっちの方に首を向ける。正直、香織は疑っている。見えるはずのない自分が、他人の目に映るはずがない。香織は半信半疑で手を振ってみた。その少年は、笑いかけてくれた。心に、ぽっと、希望の火が一つ、灯った。
香織はこの風景に強く引っかかる既視感があった。懐かしさまで感じるほどだ。近い、そう直感する。改めて希望も喜びも一気にやって来た。少し遅れて不安も、どっとやって来る。しかし、ここで引き返してしまったら何にもならない。やがて、一つの家に着く。(ここだ。間違いない。)
香織の感覚能力がガンガンに響く。香織は中に入ってみる。
泣きやんだ途端、啓介は楽しい思い出ばかり思い出していた。香織と二人でスケッチをしに近くの河原まで行った事。香織と二人で東京ディズニーランドに行ったけれど、そういうところには慣れていず、周りから浮きまくっていた事。香織と二人で、新学期に初登校した時、周りからひそひそ話されていて恥ずかしかった事。…。
すべての事に「香織と二人で」が付いていた。今では不可能になってしまった事なので、懐かしい。今下校中であるこの通学路。昨日までは「香織と二人で」下校していた。
また、目頭が熱くなる。視界が滲む。そして、涙が一筋、流れ出す。一度流れ出すと簡単には止まらなかった。
(ここは見たことある。やっぱりここが目的地なんだ。)
啓介の部屋に入った香織はきょろきょろしながら、確認する。無論、ここが「啓介」の部屋だとは分からなかった。ただ、自分がここを目指して飛んできて、今目的地にいる、とは分かっていた。不意に、一つの強く引っかかる気配がした。あの、親しい気配。香織は覚悟を決める。
啓介は必至になって涙を拭き取る。涙の筋まで念入りに擦り取る。理由は簡単、つまり、恥ずかしいからなのだ。年頃の子供というのはいやに自分の感情を、特に悲しいと言う感情に対しては恥ずかしい。親に見られると、何故か行き場のなさを感じるくらいに恥ずかしくなる。
「ただいま。」
いよいよ家の中に入ってみるといつもと違う雰囲気が家の中に満ちていた。しかし、気にするほどでも無いので啓介は深く追求はしなかった。人間という生き物は得てしてそういうモノなのだ。テーブルの上にあるメモを見て、母親の帰りが遅いことを確認して二階にある自室に向かう。階段を上る毎に違和感のようなモノに変わった。だがこれも無視した。所詮は思い違いだと思いこむ。
 (来た。)
実際問題、香織はかなり期待していた。自分を受け入れられるような人物だと、信じて疑わなかった。信じるから、強くなれるものなのだ。やがて何者かが階段を上る音がする。香織は、刻一刻と過ぎ去る時の流れを逆流しているような気分になった。
いつものように、何気なく行った習慣的な動作、「扉を開ける」だけで啓介は、もう、習慣的、日常的、つまり時が流れるだけの世界とは縁を切ることになった。
部屋には、よく知った顔の色彩の薄い幽霊がいた。一瞬、啓介の周りの空気が制止した。
 少年と幽霊が出会った。


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